名品過払い4金

ドミニオンの話

小さいころのオカルトな話

雑記ベント、読んでて楽しいです。

もっと読みたいなぁという盛り上げの意味を込めて12/5枠を利用して私、鏡が記事を書かせていただきまする。

 

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みなさんの一番古い記憶っていつ頃のものでしょうか。

小さいころの記憶だと自分が思っているものの3割くらいは大人になってから作られた捏造だったりするわけですが、僕が自分の記憶だと確信できる一番古い記憶は幼稚園の年少組のころです。

かくれんぼで同じ幼稚園の女の子2人と穴ぼこが開いたドーム状の遊具の中に隠れているシーンが自分の中で最も古い記憶です。今も割と鮮明に思い出せたりします。

 

他にも幼稚園時代のことはいくつか思い出せるんですが、この辺はまぁ、無邪気で活発な幼少期を過ごしたのだなぁと感じられるエピソードくらいで別段不思議なところはありませんでした。取り上げるのはもう少し後の記憶。

 

僕は幼稚園から小学校に上がるときに引っ越しをしました。それまで住んでいたぼろっちい木造平屋の一戸建てを離れて、1つ隣の市の住宅地の一角に移り住みました。

新居の、特に入り口付近の構造だけ簡単に説明します。玄関入って左手すぐに収納があります。靴脱いで家の中に入ると小さな長方形の踊り場になっていて、正面にはリビングにつながる扉、右手にはキッチンにつながるスライドドア、右後方にはトイレと、その横に2階へ続く階段があります。説明下手ね。

それで、リビングへつながる扉とキッチンへつながる扉の間、踊り場の隅っこのスペース。

 

引っ越してきてすぐのときから、中学卒業するくらいまでの期間、その隅っこのスペースにはたまに『おじさん』が立っているようになりました。

『おじさん』は非常に背が高かったです。たぶん、今の自分よりも大きいので190cmはあったと思います。体格もそこそこがっしりしていたように思います。

『おじさん』はいつも同じ格好をしていました。『おじさん』は黒い帽子をかぶっていました。黒いチェスターコートを羽織っていました。手はごつごつとして浅黒く、木製の杖を突いていました。コートの下はツイード生地でグレーのスーツスタイルでした。ネクタイはしてなかったように思います。あと、靴がどうだったかも覚えていません。そして、これが一番特徴的で、『おじさん』の印象のほとんどを占めていたのですが、(むしろ今『おじさん』の身なりをここまで詳細に描写できたことに驚いています)『おじさん』はゴーグル状の眼鏡と不思議な形のマスクをしていました。

なぜ『おじさん』だ、とその人を判断したのかは定かではありませんが、僕はその人のことを確実に『おじさん』だと思いました。

『おじさん』はペースもタイミングも不規則にそこに現れて、ただ僕のことをじーっと目で追うのです。そして、僕がいったんリビングに入ってまた出てきたら消えてたり消えてなかったりしたのです。

 

僕は特に親にそれを報告することもなく、友人にその話をすることもなく小中9年間くらいを過ごしていました。その間僕は『おじさん』がそこにそのように存在してさも当然かのように振る舞い、またそのように思っていました。そうするといつの間にか『おじさん』は見えなくなっていました。僕は『おじさん』が見えなくなってもまた、それが当然だと思っていました。

 

さて、時は進んで大学3年生くらいのころ、僕は思わぬ形で『おじさん』に再会を果たします。正確にはそれは『おじさん』ではありません、『おじさん』のつけていたゴーグル状の眼鏡と特徴的な形のマスクが何かを知るわけです。

 

『おじさん』がつけていたのは、ペストマスクでした。

 

それを知った時の詳しい状況や生まれた感情などは、覚えていないんですよね。

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ここで読み終えてもよいかもです。

関係ないんですが、自分の体験を新鮮な形で文章にできる人ってすごいですよね。

僕が書くとどうしても迂遠な感じになってしまって悲しいです。

 

さて。

僕は、幽霊や異世界や並行世界などの、いわゆる『想像上のモノとされているモノ』に対しては『存在しないと8割くらい思っていて、存在したほうが世の中面白いよねと8割くらい思っている』というスタンスを取っています。

ホラーとか未知の恐怖みたいなものには偏差値55くらいの敏感度を誇っており、別段得意とかいうことはありません。ただ夢枕に先祖のじーちゃんばーちゃんが出てくるっていう話とか実はこの世界は『向こう側の世界』と門でつながっていて2つの世界はエネルギー平衡が保たれており、その配分を巡って日夜見えない戦いを繰り広げているという話とか、自分という存在は那由多に分解されたうちの1であり、同時並行でまったく違う人生展開を迎えた自分が存在しているという話にはロマンがあると思います。

ロマンがあると思う以上に、そうあってくれたほうが世界が広くてよくなるなぁと思っています。

 

それと近い話で、無根拠な意思決定(コイントスの表裏で今後を占うなど)や単なる偶然にも何かしらの意思や意味づけをあてはめて楽しむということがままあります。また、そのように得られた結論や結果に対して平均以上に意味を見出すことが多いです。無論?生活における多くの決定すべてをこうしたフカクジツなものに任せているということはありません。寧ろ自分の自由が許される範囲でこうやって遊んでる分、何か制約のある場面ではより理性的に理論的にあることが多いと思います。

 

こんな話をするとそれなりの確率で『なにいってんだこいつ』みたいな顔をされたりしそうなので現実でこういう話をしたことはありません。

ところがもし僕がちっちゃくてかわいい3歳児だったとして、『ぱぱー、あそこにじいじがいるよ!』なんて言いだしたりしたらそれは1つのホラーになったりするわけですよね。23才の僕が同じセリフを言ってもそれはそれでホラーに準ずる何かにはなりそうですが。

 

まぁ要するに、『小さいころに見えていた謎のおじさんが、知識として持ってないはずのペストマスクをつけていた』という事象に、何かしらの付置や意図があるのではないか、と思ってしまうという話でした。ほんとなんなんだろうね。

 

皆さんもそういう経験ないですか?